Global Ethic - 地球倫理 ~ 地球的思考と行動
地球倫理宣言
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世界の諸宗教人が約七千人集まった1993年シカゴでの第二回世界宗教会議で「地球倫理宣言」が出されました。これは世界の諸問題を解決するために世界の諸宗教が共通して持つ次の四つの根本倫理を皆で守り、献身しようと言うものです:
  • 殺さない:生命を尊ぶ:非暴力と生命尊重の文化への献身
  • 盗まない:公平にする:一致団結と公正な経済秩序の文化への献身
  • 嘘を言わない:真実に行う:寛容と真実の生活の文化への献身
  • 性的不道徳をしない:敬愛する:男女の平等な権利と共同の文化への献身
皆がこれを守れば差別、搾取、殺戮など無くなり、戦争、テロ、独裁なども無くなります。
地球規模の世界、地球中心の生活をしなければならない時に、自己中心の行動でなく一切生命の真実に生きるには非暴力、非搾取、非差別の原則が必要です。
これを知るだけでは無く、実際に行い、行わせるように皆が協力し連帯することが最も大切と思われます。
このために様々な機関、団体、個人が活動しています。また出版物やネット情報等があります。
無限の生命を知り、発現するために、情報交換をし、共同活動をしましょう!


地球倫理宣言


ハンス・キューング 著
吉田 収 訳

まえがき

 以前のいつにも増して、世界政治、世界技術、世界経済と世界文明によって世界の時代が世界倫理を必要としているということを、今日ではもはや誰も本気になって疑うことはできません。それは結合する価値、取り消し不能の基準と個人の態度に関する根本的意見の一致(コンセンサス)を意味します。倫理に対する基本的意見の一致がなければ、どんな社会でも遅かれ早かれ混沌か独裁制に脅かされるでしょう。地球倫理なしにはより良い地球秩序はあり得ません。

 ここで、地球倫理とは地球的イデオロギーとか、一切の現存する宗教を超える一つに統合された地球宗教とか、一切の宗教の混合とかを意味しているのではありません。人類は統合的イデオロギーといったものにはうんざりしており、どのみち世界の諸宗教はその信仰や教義(ドグマ)についての見解も、その象徴や儀式もあまりに違うので、それらを「統一」するなどということは無意味で、味わいのない混合カクテルになってしまうでしょう。

 地球倫理はまた、ここの諸宗教の高い倫理を倫理の最下限主義(ミニマリズム)で置き換えようと望んでいるのでもありません。ユダヤ人のトーラ、キリスト教徒の山上の垂訓、ムスリムのコーラン、ヒンドゥー教徒のバガヴァッドギーター、仏陀の説法、孔子の言葉  これらのすべては、何百万という男性や女性にとって信仰や生活、思考や行動の基礎となっているものです。それでは一体何が?

 地球倫理は、世界の諸宗教が、人間の行為や道徳的価値や基本的な道徳的信念の違いはあるにもかかわらず、現在すでに共通に持っているものをともに成し遂げようと望んでいるものなのです。言い換えれば、地球倫理とは宗教を倫理の最下限主義に縮小するのではなくて、世界の諸宗教が倫理の分野で、今すでに持っているものの最小のものを表現しているのです。それは誰かに対して指図するのではなく、信者・非信者を問わず一切の人々がこの倫理を自分のものとして、それに従って行動するように勧めているのです。

 宗教の歴史の中で始めて、1993年8月28日から9月4日までシカゴで世界宗教会議の協議会が催され、出席可能なすべての宗教から六千五百人が参加して「地球倫理への宣言」を作成し、提示しました。まったく予期されたとおり、この宣言は会議中活発な討論を巻き起こしました。しかしながら、歓迎すべきことには、非常に多くの宗教が政治的紛争、実際、流血の戦争に巻き込まれているときに、極めて異なる、大小様々の諸宗教の代表者たちが、この地上の無数の信者のために自ら署名して、この宣言を裏書きしたことです。

 この宣言は、今や討議と受け入れの広範な課程への基礎となりましたので、あらゆる宗教に電気火花を発することを望んでいます。というのはもちろん、この地球倫理への宣言は1776年のアメリカ革命の時の最初の人権宣言のように、終わりではなく始まりなのですから。これは当初からはっきりしていましたし、この宣言が「地球倫理への当初宣言」と名づけられて会議の閉会時に再びはっきりと表明されました。望まれることはこの文書が宗教の中にある男性や女性の行動を理解と尊重と協力の方向へ変える課程を始めることです。そして、もしすべてうまくいけば、あまり遠くない将来、私たちは諸宗教の地球倫理をもっと簡潔で具体的にし、それにもっと具体的に加えた宣言を持つことになりましょう。多分、いつの日か、しばしば無視され、無惨に犯されている人権宣言に対して道徳的支援を提供するする国連の地球倫理宣言さえもあるでしょう。

 しかしそのような期待はまったくの幻想ではないでしょうか?諸宗教はそんな宣言を受け入れると期待できるでしょうか?そのような希望は現実的なのでしょうか?永遠の懐疑主義と悲観論者に対して、私たちは次のように言いましょう、「二・三十年の間に経済と生態学、世界平和と軍縮、男性と女性の共同精神についての意識の普遍的変化を世界にもたらすことが可能であることを実証したのを、誰も否定しないでしょう」と。ここにある私たちの文書は、同様な意識の変化が人類全体の基本的倫理、すなわち地球倫理についても起きてほしい、という希望から書かれ承認されたのです。この宣言が紙片以上のものであり生命に充ち、人々を鼓舞して相互の尊敬、理解、協力の生活をさせるのを確かにするのは、極めて現実的な方法で、どこにあっても、この地球の宗教と世界中の人々にかかっているのです。

 この「まえがき」はシカゴでの世界宗教会議を組織した人々、特に理事会の議長デーヴィド・メッジ博士、実行委員長ダニエル・ゴメス‐エバネス博士、および世界宗教会議を準備し世話する課程で、驚嘆すべきやり方で途方もない仕事の重荷を処理してきた多くの無私の、効率的で友情に充ちた援助者達すべてに対して、暖かい感謝の言葉なくして終えることはできません。

シカゴ/チュービンゲン 1993年9月
ハンス・キューング



地球倫理への宣言



世界宗教会議

  1. 序文

    世界は苦悶している。その苦悶があまりにも拡大し緊急を要するので、その苦悩の深さを明らかにするためにそのありさまを名指しで示すように迫られている。
    平和がわれわれから逃げ失せ・・・この惑星は破壊されつつあり・・・隣人たちは恐怖の中に生活し・・・男女は疎外し合い・・・子供たちは死んで行く!
    これは空恐ろしいことだ!
    我々は地球の環境体系の濫用を断罪する。
    我々は生命の可能性を窒息させる貧困、人体を衰弱させる飢餓、あまりにも多くの家庭を崩壊の恐怖にかりたてる経済的不均衡を断罪する
    我々は諸国の社会的混乱、市民を限界状況に追い込む正義の無視、我々の共同体を捉える無政府状態、暴力による気違いじみた子供たちの死を断罪する。特に宗教の名を借りた攻撃と憎悪を我々は断罪する。
    だが、この苦しみを受ける必要はないのだ!
    それを受ける必要はないのだ。なぜなら倫理の基礎が既に存在するのだから。この倫理はよりよい個人的・地球的秩序の可能性を提供し、個人の絶望から、社会を混沌から救いだすものである。
    我々は世界の宗教の教えと実践を胸に抱いてきた女性であり男性である。
    我々は諸宗教の教えの中に共通の一組の核価値が見出され、これが地球価値の基準を成すことを確認する。
    我々はこの真理は既に知られていたが、未だ心と行動を持って生きられていなかったことを確認する。
    我々は生命の全領域のための、家族や共同体のための、人種、国家、宗教のための、取り消し不能で無条件の規範があることを確認する。世界の諸宗教の教えに見出され、維持可能な世界秩序のための条件である、古来の人間行動の指導原理が既に存在するのである。

    我々は宣言する:
    我々は相互依存している。我々の各々は全体の福祉に依存しているのであるから、我々は生物共同体を、人々、動物、植物を、そして地球、空気、水、土の保全を尊重する。
    我々は為すことすべてに個人的責任を取る。我々の決心、行動、そして行動しないことにもすべてその結果がある。
    我々は他人が我々を扱ってほしいと望むように、他人を扱わなければならない。我々は誰でも例外なく人間として扱われるように生命と尊厳、個性と多様性を尊重するために献身する。我々は忍耐と包容(の態度)を持たなければならない。我々は過去に学び、決して憎悪の記憶の奴隷になることをせず、許すことができなければならない。お互いに心を開いて、我々は世界共同体の大儀のために狭小な相違を没却し、一体性と相依性の文化を実践しなければならない。
     我々は人類を自分の家族とみなす。我々は新設で寛大であるように努力しなければならない。我々は自分のために生きるのではなく、子供たち、老人、貧しい人、苦しむ人、傷害のある者、避難者、孤独者たちを決して忘れず、他人にも奉仕すべきである。いかなる方法であろうと二級市民とみなされたり、扱われたりしてはならないし、如何なる方法であろうと搾取されてはならない。男性と女性の間には同等のパートナーシップ(共同精神)がなければならない。我々は如何なる方法であろうと性的不道徳を犯してはならない。我々はあらゆる種類の支配と濫用を捨て去るべきである。我々は非暴力尊敬構成と平和の文化に貢献する。我々は違いを決着させるための方法としての暴力を放棄し、ほかの人間を抑圧、傷害、拷問し、あるいは殺してはならない。
    我々は人間として潜在能力を完全に発揮する同等な機会を誰もが持つ公正な社会・経済秩序のために努力する。我々は偏見と憎悪を排し、一切の人々を公平に扱い、真実と慈悲を持って語り、行動しなければならない。我々は盗んではならない。我々は公正で平和な世界を作るため、力に対する欲望・特権・金銭・消費から抜け出さなければならない。
    個人の意識が先ず変わらなければ、地球が良いほうに変わることはない。我々は心を鍛え、瞑想により、祈りにより、積極的思考によって、自ら更に意識的になることを誓約する。犠牲を払う覚悟と用意がなければ我々の現状を根本的に変えることは全くありえない。それ故、我々はこの地球倫理に、相互理解に、そして社会的に有益で、平和をはぐくみ、自然に親しい生活法に献身する。

    我々は宗教的であるなしにかかわらず、一切の人々に同様にするように招請する。



  2. 地球倫理の諸原則

     我々の世界は根本的危機、すなわち、地球的経済、地球的生態系、地球的政治の危機を経験しつつある。壮大なヴィジョン(視野)の欠如、未解決な諸問題のもつれ、政治的麻痺状態、洞察力あるいは先見力のない凡庸な政治指導力、そして一般的に言って、公共の福祉に対する無感覚が至る所で見られる。すなわち新しい挑戦に対して旧式な回答があまりにも多いということである。

    我々の惑星上の何億という人間が、ますます無職、貧困、気が、そして自らの家族の崩壊に苦しんでいる。国家間の永続的平和への希望は我々の手からすり抜けていく。異性間、異世代間には緊張がある。子供たちは死に、殺し、殺されている。ますます多くの国々が政治と商業の腐敗により揺さぶられている。社会的・人種的・民族的紛争、麻薬悪用、組織的暴力、そしてさらには無政府状態のため、自分たちの町でともに平和に暮らすことがますます困難になってきている。隣人同士がお互いを恐れあって生活しなければならないことさえある。我々の惑星は無慈悲に掠奪され続けている。生態系の崩壊が我々を脅威にさらしているのである。

    繰り返し繰り返し我々は、宗教の指導者や所属員が攻撃・狂乱・憎悪そしてよそ者嫌いを扇動し、あまつさえ、暴力的流血の紛争を鼓舞し、正当化するのを見ている。宗教はたびたび戦争も含め、純粋に政治権力の目的のために乱用されている。我々は吐き気が込み上げてくるのを禁じえない。

    我々はこれらの胴枯病を非難し、これらを不必要であると宣言する。地球的苦悩に対処できる倫理はすでに世界の宗教の教えの中にある。もちろん、この倫理は世界の膨大な問題のすべての直接的解決を提供するものではないが、個人的および地球規模のよりよい秩序、すなわち女性も男性をも失望から、そして社会を混沌から導き出すヴィジョン、の道徳的基盤を供給するものである。

    我々は世界の宗教の教えと実践に献身してきたものである。我々は次のことを確認する。すなわち、諸宗教のうちには地球倫理の基礎となるべき意見の一致(コンセンサス)、お互いを結合する価値、取り消し不能の基準、根本的道徳態度に関する最小限の根本的意見の一致があるのである。

    1. 地球倫理なくして新地球秩序なし

      我々、地球の諸宗教および諸地域の女性および男性は、宗教的であろうとなかろうと、一切の人々に呼びかける。我々は共通のものとして抱く次の信念を表明したい。すなわち、

      • 我々のすべてがより良い地球的秩序に責任を持つこと。

      • 人権、自由、公正、平和、地球の保存のための我々の積極的取り組みが絶対必要であること。

      • 我々の宗教・文化の伝統の相違が、非人間的な一切のことに反対する共通の積極的取り組みや、より偉大な人間性のための仕事を、妨げてはならないこと。

      • この地球倫理に表明された諸原則は、宗教に基づこうと基づくまいと、倫理的信念のある人々にとっては誰にでも是認されるものであること。

      宗教的・倫理的人格として、我々は自らの生活を究極的真実に基礎を置き、そこから精神力と希望とを得、有言または無言のうちに、祈りまたは瞑想する。我々は一切人類の福祉と惑星地球の保全の特別な責任を負っている。我々は他の女性や男性より優れているとは思わないが、我々の宗教の古来の知恵が、未来への道を示すことを信じる。

       二つの世界大戦と冷戦の終結、ファッシズムとナチズムの崩壊、共産主義と植民地主義の二つの基盤の同様の後、人類はその歴史の新局面に入った。今日我々はより良い地球秩序をもたらすために十分な経済的・文化的・精神的資源を持っている。然るに新旧の人種的・国家的・社会的・経済的・宗教的緊張がより良い世界を平和に建設することに対する脅威となっている。我々は以前にもまして偉大な技術的進歩を経験してきたのに、世界的規模の貧困・飢餓・児童死亡・失業・悲惨を目の当たりにしており、自然破壊は減るどころか増している。多くの国民は経済的崩壊、社会的混乱、政治的限界状況、生態的破局と道徳的崩壊に脅かされている。

       このような劇的地球状況において、人類は諸国民がともに平和に生活し、諸民族・倫理グループ及び諸宗教が地球を保全する責任を分かち合う、というビジョン(視野)を必要としている。ビジョンは希望・目標・理想・基準に基づいている。だが世界中至る所で、これらは我々の手から抜け落ちてしまった。しかしながら我々は、これらが?々誤用され失敗したにもかかわらず、このような希望・目標・理想・基準を守り、基礎づけ、生きることが可能であると実例を持って証明するのは、信仰の共同体であると信じる。このことは現代国家において特にそうである。両親と宗教の自由の保障は必要だが、これらは社会的出自、性別、皮膚の色、言語、宗教などにかかわらず一切の人間にとって有効な、人々を融合する価値、信仰及び規範の代用となることはできない。

       我々は地球上の人間家族の根本的一体性を確信している。我々は国連の1948年の世界人権宣言を想起する。それが諸権利の水準で正式に宣言したところのもの、すなわち、人間としての人格の本質的尊厳、原則上すべての人間の手放すことのできない自由と平等、すべての人間の相互の必然的一体性と相依性を我々はここに倫理の視野から確認し深化することを欲する。

       個人の重荷を担った我々の惑星の歴史から、我々は次のことを学んできた。すなわち、

      • よりよい地球的秩序は法律・法規定・習慣のみでは創造することも強制することもできないということ。

      • 平和、公正及び地球の保護の実現は、男女が正しく行動しようとする洞察と覚悟に依存するということ。

      • 諸権利及び自由のための行動は、責任と義務の意識を前提とし、それゆえ男性及び女性の思想及び感情の両面に訴えなければならないということ。

      • 道徳の伴わない権利は永続することができず、地球倫理の伴わない、より良い地球的秩序などはあり得ないということ。

      地球倫理ということによって、我々は一切の現存する宗教を超える地球的イデオロギーとか、単一の統合宗教とかを、ましてほかの一切の宗教に対するある宗教の優越とかを意味するのではない。地球倫理ということによって、我々は拘束する価値、取り消し不能な基準、個人の態度に関する根本的な意見の一致(コンセンサス)を意味するのである。倫理に関するこのような根本的意見の一致なしには遅かれ早かれどの共同体も混沌か、独裁制に脅かされ、諸個人は絶望することになろう。


    2. 根本的要請:すべての人間は人間として扱われなければならない

       我々は見な、限界と欠点を持った過ちを犯しうる、不完全な男性であり女性である我々把握の現実があることを知っている。まさにこの理由から我々はやむにやまれず、地球の福祉のために、共同体や組織体と同様個人にとって、また宗教自体と同様国家にとって、地球倫理の根本的要素が何であるべきかを実現するのである。われわれは?々数千年の古さを持つ我々の宗教的・倫理的伝統が、宗教的であるなしにかかわらずすべての善意の男女に信じるに足り、実行可能な倫理を提供することを信じる。

      同時に我々は自らの様々な宗教・倫理的伝統が?々男性や女性に対して何が助けになるか何が助けにならないか、何が正しく何が誤っているか、何が良いか何が悪いかに対して非常に違った基礎を提供することを知っている。我々は個々の宗教間の重大な相違を塗りつぶしたり、無視しようと望むものではない。しかしながらこのことが、各々自らの宗教的倫理的根拠に基づきながら、しかも既に共有し、ともに是認する事柄をわれわれは公に宣言することを妨げるべきではない。

      我々は諸宗教が地球の環境、経済、政治、社会の諸問題を解決できないことは知っている。しかしながら経済計画や、政治的プログラムや、法規制のみでは明らかに達成できないものを、それは提供できる。すなわち、それは人々の内的思考・精神全体・「心」の変革と、誤った道から生命へ新思考という転換である。人類は社会的・生態的改革を緊急に必要としているが、同時に緊急に精神的刷新を必要としている。宗教的・精神的人格として我々はこの課題に献身(コミット)する。宗教の精神力は、根源的な信頼感、意義の根拠、究極的な基準と精神的な安息所を提供することができる。もちろん、宗教自身に由来する総括を取り除き、相互の豊満、不信、偏見、さらには敵対的心象を剥ぎ取り、信仰を異にする人々の伝統、聖地、祝祭・儀式に対する敬意を表明するときのみ、宗教は信用できるものとなる。

      以前と同様今も、世界中至る所で女性も男性も非人間的扱いを受けている。彼らは自分たちの機会と自由を奪われている。:自分たちの人権が足の元に踏みにじられている、つまり、自分たちの尊厳が無視されているのだ。だが力は正義とはならないのだ!

      これはあらゆる非人間的事態に直面して、我々の宗教的・倫理的信念は、あらゆる人間は人間として扱われるべきであることを要求する。

      これはあらゆる人間が年齢・性別・人種・皮膚の色・心的及び心的能力・言語・宗教・政治的見解・国家的または社会的出自にかかわらず、不可分、不可侵の尊厳を持つことを意味する。それゆえ、誰でも、国家と共に個人も、この尊厳を尊重し保護する義務を負う。人間は常に権利の主体でなければならず、目的でなければならず、決して単なる手段であってはならないし、また経済、政治メディアや研究機関、あるいは産業法人の商業化や産業化の対象であってはならない。如何なるものも「善悪を超えて」存立するものはない―如何なる人間も、如何なる組織も、如何なる影響力ある利益団体も、如何なるカルテルも、如何なる警察組織も、如何なる軍隊も、如何なる国家といえども。これとは反対に、如何なる人間も理性と両親を持って、真正に人間的なやり方で振る舞い、善を行い、悪を避ける義務を負う!

      これが何を意味するのかを明らかにするのがこの地球倫理の意図である。そこに取り消し不能で無条件の倫理規範を我々は喚起しようと欲する。これら博士や鎖であってはなら名図、人々が自身の生命の方向、思考や意義を再び見出し、実現するための助けであり、支えとすべきものである。

      人類の宗教的・倫理的伝統の多くのものに何千年にわたって見出され、いき続けてきた原則がある。それは「自らにしてほしくないことは他人にもするな!」あるいは積極的な言葉で「自らにしてほしいことは他人にもせよ!」である。これはあらゆる場において、仮定や共同体にとって、人権、国家、宗教にとって取り消し不能で、無条件の規範でなければならない。

      自己中心主義は如何なる形であれ拒絶されるべきである:一切の利己主義は個人的あるいは集団的であれ、階級的考え、人種主義、国家主義、性差別という形であれ(拒絶されるべきである)。我々はこれらのものを非難する。なぜならこれらは人間が正当に人間としてあることを妨げるからである。自己決定と自己実現は人間の自己責任及び地球責任と分離されない限り、すなわち他の人間及び惑星地球に対する責任から離れない限り、正当なものである。

      この原則は我々人間が確固として保持すべき非常に具体的な基準であることを意味している。これらのことから、世界の宗教のほとんどに見出される人間の行動の四つの、広い、古来の指導原理が出てくる。

    3. 四つの取り消し不能の教令

      1. 非暴力と生命の尊重の文化への献身

         あらゆる地域及び週休の無数の男性や女性が自己中心主義ではなく、人間同士と周囲世界への献身に決定づけられて生活する努力をしている。しかるに世界中至る所、我々は個人間だけでなく、社会的・民族的団体間に階級・人種・国家・宗教観に終わることなき憎悪、羨望、嫉妬と暴力を見出す。暴力の使用・麻薬取引や組織的犯罪はしばしば新技術の可能性を装備して、地球規模に達している。多くの所ではいまだに「上から」の恐怖に支配され、独裁者は自国民を抑圧し、制度的暴力が広く行きわたっている。個人の自由を守る法律のある国でも、ある所では、囚人は拷問を受け、男も女も不具にされ、人質は殺されている。

        1. 人類の偉大な古来の宗教的倫理的伝統の中に我々は「殺すな!」、積極的な言葉では「生命を尊重せよ!」との教令を見出す。われわれはこの古来の京例のもたらす結果を新しく考え直してみよう。人々は誰もほかの人間を、肉体的・心理的に拷問し、傷つけ、ましてや殺す権利を持っていない。如何なる国民も、国家も、宗教も、行動が違い、異なる真情を持つ「外来の」小数者を憎み、差別し、「浄化し」、追放し、ましてや消し去る権利はもっていない。

        2. もちろん、人間のいるところ衝突はあるだろう。そのような衝突は、しかしながら、正義の枠組み内で、暴力を使わず解決されるべきである。これは個人と同様、国家にとってもそうである。政治権力を有するものは正義の秩序の枠組み内で仕事をすべきであり、できうる限り最も非暴力的・平和解決に至るよう献身すべきである。彼らはこのために、それ自体、暴力の犯罪者からの保護・防御を要する国際的平和秩序の枠組み内で仕事をしなければならない。軍備は誤った道である。すなわち軍備撤廃は時代の至上命令である。地球の平和なくして人類が生き残ることはない!

        3. 若い人たちは家庭でも学校でも、他人との意見の相違を解決する手段として、暴力は適当ではないということを学ぶべき出る。このようにしてのみ非暴力の文化を創造することが可能となるのである。

        4. 一人の人間として人格は限りなく貴重であって、無条件に保護されなければならない。だが、我々とともにこの惑星に生息する動物・植物の生命も同様に保護・保存・保全する価値がある。生命の自然の基盤を無限に搾取し、生命剣を無慈悲に破壊し、宇宙を軍事化することはすべて無法行為である。人間として特に未来世代の観点から、地球と宇宙に、空と水と土に、我々は特別な責任を持つ。我々はこの宇宙に共に結び合わされ、我々は皆お互いに依存しあっている。我々は各々一切のものに福祉に依存している。それゆえ、自然と宇宙に対する人間の支配は奨励されてはならない。そうではなくて我々は自然と宇宙と調和した生活を育てていかなければならない。

        5. 我々は偉大な宗教的・倫理的伝統の精神において、神聖に人間的であるということは、個人生活同様、公的生活でも他人を思いやり、いつでも助ける用意があるということである。我々は決して無慈悲や野蛮であってはならない。国民も人種もすべて他の誰に対しても寛容と尊敬を、実に高度の理解を、示すべきである。少数者は、人種的であれ、民族的であれ、宗教的であれ、保護と支援を必要としている。


      2. 一致団結と公正な経済秩序の文化への献身

         あらゆる地域及び宗教の無数の女性及び男性がお互いに一致団結して自らの生活を行き、自らの転職の真正な達成のために働くよう努力している。それにもかかわらず、世界中いたるところ、終わるところのない飢餓と欠乏と必要があることがわかる。個人だけでなく、特に不正な機関や機構がこれらの悲惨に対する責任を負っている。何百万という人々が仕事を持っていないし、何百万もが哀れな賃金で搾取され、社会の片隅に追いやられ、未来への可能性を破壊されている。多くの土地で貧しいものととめるもの、あるいは力を持っているものと力を持たないものの溝は巨大である。抑制ない資本主義と同様に全体主義的な国家社会主義が多くの倫理的及び精神的価値を空洞化し破壊してしまった。物質主義的な心的態度が無制限の利益に対する貪欲と、とまるところを知らない略奪に対する強欲を生んでいる。これらの要求が、個人がより多く貢献することを義務づけずに、共同体の資源をますます多く要求しているのである。腐敗という癌のような社会悪が発展途上国にも、発展した国々にもはびこっている。

        1. 人類の偉大な古来の宗教的・倫理的伝統の中に我々は「盗むな!」あるいは、積極的な言葉で、「正直に公平になせ!」との教令を見出す。我々はこの古来の教例のもたらす結果を新しく考え直してみよう。誰も他人からその福祉をどんな方法であろうと、盗み・剥奪する権利はもっていない。

        2. 極度の貧困が支配しているところでは無力感と絶望感が広がっており、生き残るために繰り返し盗みも起きる。力と富が非常に集積されたことでは、不利な立場にあり減愛情教に追い込まれたものたちに、嫉妬、嫌悪、執念深い憎悪の感情と反逆人が沸き起こるのは避けがたい。これが暴力と対抗暴力の悪循環に導く。誰一人として騙されてはならない。地球的公正がなければ地球的平和がないということについて!

        3. 若い人たちは、財産はたとえどの程度限られたものであっても、それは義務を伴うものであり、それを使用することは同時に共同の利益に資するべきものであるということを、家庭でも学校でも学ばなければならない。こうしてのみ公正な経済的秩序が建設され得るのである。

        4. この惑星状の何十億という極貧の人間、特に女性と子供の窮状が改善されるためには、世界の経済がもっと公正に構成されなければならない。個人の善行や救助計画は不可欠ではあるが、不十分である。公正な経済機構を構築するためにあらゆる国々と国際組織の権威の参加が必要である。

           解体しつつある第二世界、まして第三世界の負債危機と貧困の解決には諸方からの支援が求められなければならない。もちろん、利害の衝突は避けられない。先進国においては、必須の消費と無制限のそれ、社会的に有益な財貨使用と無益なそれ、自然資源の正当化できる使用と正当化できないもの、及び利潤追求だけの市場経済と社会的に有益な生態学的思考のそれとの区別がつけられなければならない。発展途上国もまた、自らの国家的良心を探求すべきである。
          支配する者が支配される者を弾圧の脅威にさらしている所はどこでも、組織が個人を脅迫している所はどこでも、また力が正義を圧迫している所はどこでも、我々は抵抗する義務がある。しかし、できることならいつでも非暴力的にすべきである。

        5. 我々の偉大な宗教的・倫理的伝統の精神で神聖に人間的であることは以下のことを意味する。すなわち、

          • 我々は経済的・政治的な力を、勢力拡大のための無慈悲な戦いに悪用するのではなく、人類の奉仕のために善用しなければならない。我々は苦しむ人たち、特に子供・老人・貧窮者・傷害者・避難者・孤独者たちに配慮して慈悲の修養をしなければならない。

          • 我々は無制限な力と避けられない闘争的相当のみを考えるのではなく、利害関係の合理的な均衡に達するために、相互の尊敬と配慮を育成していかなければならない。

          • 我々は金銭や特権や消費に対する飽くなき欲望のかわりに、節制と謙譲の感覚を勝ちあるものとしなければならない。貪欲のうちに人間は自らの「魂」の、自由を、落ち着きを、そして内面的平安を失い、かくして、自らを人間たらしめているものを失うのである。

      3. 寛容と真実の生活の文化への献身

         あらゆる地域及び宗教の無数の女性及び男性が、正直と真実の生活をするよう努力している。それにもかかわらず、世界中尾たるところ、終わることのない虚偽と欺瞞、詐欺と偽善、イデオロギー(観念主義)とデマ(扇動)があるのがわかる。すなわち、

        • 政治家やビジネス(商売)関係者たちは成功の手段として嘘を言う。

        • 増す・メディア(大量情報機関)は正確な報道のかわりにイデオロギーの宣伝を、情報のかわりに虚報を、あるいは真実に忠実であるかわりに反社会的な商業的利益を拡大している。

        • 科学者や研究者たちは道徳的にいかがわしいイデオロギー的・政治的計画、あるいは経済的利益団体に身売りし、そして基本的倫理価値を犯す研究を正当化している。

        • 宗教代表者たちはほかの宗教は価値がないと言い、あるいは尊敬と理解の代わりに狂信と不寛容を説教している。

        1. 人類の偉大な古来の宗教的・倫理的伝統の中に我々は「嘘を言うな!」あるいは積極的な言葉では「真実を話し、行え!」との教令を見出す。我々はこの古来の教令のもたらす結果を考え直してみよう。如何なる女性も男性も、組織も、如何なる国家も、教会も、宗教共同体も他の人々に対して嘘を言う権利はもっていない。

        2. これは特に、以下の人々についてそうである。

          • マス・メディアに働く人々にとって。その人々に我々は真実のための報道の自由を信託し、(真実の)番人としての役職を付託したのである。その人々は道徳を超えて存立するものではなく、人間の尊厳、人間の諸権利及び根本的価値を尊重する義務がある。その人々は客観性、公平さ、及び人間の尊厳を保護する義務に拘束されている。その人々は個人の私的領域に侵入し、世論を操作し、事実を歪曲する権利は持たない。

          • 芸術家、文筆家、科学者たちにとって。その人々たちに我々は芸術的、学問的自由を信託しているのである。その人々は一般の倫理基準を免除されているのではなく、真実のために奉仕しなければならないのである。

          • 国の指導者、政治家たち、諸政党にとって。その人々に我々は我々自身の自由を信託しているのである。その人々が人々と面と向かって嘘をつき、真実をmw下、国内外の事柄に関する無節操(金銭ずく)や無慈悲の罪を犯した場合、その人々は信頼を失い、役職と選挙民を失うのは当然である。これに反し、如何なるときでも人々に勇気を持って真実を語る政治家を世論は支持すべきである。

          • 最後に、宗教を代表する人々にとって。その人々が信仰を異にする人々に対する偏見、憎悪、敵意をかきたて、さらには宗教戦争を扇動あるいは正当化するなら、その人々は人類の非難を受け、信奉者を失うのが当然である。

        3. 誰一人として騙されてはならない。真実と人間らしさがなければ、地球に公正はないということについて!

        4. 若い人たちは、真実に従って考え、話、行動するよう、家庭でも学校でも学ばなければならない。その人々は自らの人生形成の決断をすることができるための情報と教育に対する権利を持つ。倫理的情報なしにはその人々は重要なものと重要でないものとを区別することが殆どできないであろう。日々の情報洪水の中にあっては、倫理的基準がその人たちを助けて、意見が真実として描かれ、利益がベールで覆われ、偏向が誇張され、事実が歪曲されているのを、見破るであろう。

        5. 我々は偉大な宗教的・倫理的伝統の精神で神聖に人間的であるとは、以下のことを意味する。すなわち

          • 我々は自由と独断、多元論と真理に対する無関心を混同してはならない。

          • 我々はあらゆる他社との関係において、不正直、しらばっくれ、日和見ではなく、真実であるよう修養すべきである。

          • 我々はイデオロギー的また党派的半面真理を広める代わりに、真実と清廉な誠実さを常に求めなければならない。

          • 我々は勇気をもって真実に仕え、生活の日和見な便宜のために屈せず、志操堅固で信頼できるものであり続けなければならない。

      4. 男性と女性の平等なパートナーシップ(共同精神)の文化への献身

         あらゆる地域及び宗教の無数の男性や女性が愛情、性、家族の領域でパートナーシップ(共同精神)と責任ある行動という精神で生活を生き抜くよう努力している。それにもかかわらず、世界中いたるところ、非難すべき形態の府県主義、一方のせいによる他方の聖の支配、女性の搾取、子供の性的虐待や強制的売春がある。あまりにも屢々、特に発展途上国で、社会的不公平が女性や更には子供にまで生きる手段として売春を強いている。

        1. 人類の偉大な古来の宗教的・倫理的伝統の中に我々は、「性的不道徳を犯すな!」あるいは積極的な言葉で「お互いを尊重し愛せ!」の教令を見出す。我々はこの古来の教例のもたらす結果を新しく考え直してみよう。いかなる者もほかのものを単なる性的対象物として品位を貶め、性的に依存させるようにさせ、あるいはそこに繋ぎ止めておく権利を持っていない。

        2. 我々は性的搾取と性的差別を人間性を貶める最悪の形態のひとつとして非難する。たとえ宗教的信仰の名の元になされようと、一方の性が他方の性を支配すべきであると説かれている所、あるいは性的搾取が許容されている所、あるいは売春が容認されていたり子供が濫用されている所はどこでも、抵抗する義務がある。誰一人としてだまされてはならない、パートナーシップ(共同精神)で共に生活することなしに真正の人間性はないということについて!

        3. 若い人たちは、性は否定的な、破壊的なあるいは搾取的な力ではなくて、創造的で肯定的なものであることを、家庭でも学校でも学ばなければならない。共同体の生命肯定的な形成者としての性は、パートナー(共同者)がお互いの幸福を思いやる責任を取るときのみ、効果的でありうる。

        4. 女性と男性の関係は恩着せや搾取ではなくて愛情とパートナーシップ(共同精神)と信頼関係を特徴とすべきものである。人間的充足は性的快楽と同じではない。性関係は同等のパートナー(共同者)が生活する愛情ある関係を表現し、強化するものである。いくつかの宗教伝統においては性を全体的に使用するのを自発的に放棄することを思想として求めている。自発的放棄もまた、自己確認と意義ある充足の表現でありうる。

        5. 結婚という社会制度は、そのあらゆる文化的、宗教的多様性にもかかわらず、愛情と忠誠と永遠性を特徴としている。それは夫・妻及び子供の安寧と相互支援を目指し、かつ保証すべきものである。それは家族構成員全員の権利を確保すべきである。
          あらゆる土地と文化は結婚と家庭生活を、特に老人達にとって、人間としてふさわしいものにする経済的、社会的関係を発展させるべきである。

        6. 我々の偉大なる宗教的・倫理的伝統の精神で真正に人間的であることは以下のことを意味する。すなわち、
          • 我々は、暴力と対抗暴力を表現する父権的支配と堕落ではなく、相互の威厳とパートナーシップ(共同精神)との理解が必要である。

          • 我々には、専有的渇望あるいは性的濫用ではなくて思いやり、寛容、進んで仲直り及び愛情が必要である。

          • 個人的・家族的関係ですでに体験されたものだけが、国家的、宗教的水準で実行可能なのである。

    4. 意識の改革

       歴史的経験は次のことを実証している。すなわち、我々が個人の意識ないおよび公的生活内で変革を達成できなければ地球は良い方に帰られないということを。変革の可能性は、最近数十年に根本的変化の起きた戦争と平和や、経済と生態学におけるような分野においてすでに垣間見られたのである。この変革が倫理と宗教の分野においても達成されなければならない!
       すべての個人は本質的に備わった尊厳と手放すことのできない諸権利を持っており、各人はまたその為すことあるいは成さぬことに対して逃れられない責任をもっている。我々の一切の決意と行為は、怠慢にも失敗にさえも、すべて当然の結果がある。
      この責任感を生き生きと持ち続け、それを深め、未来の世代に伝えていくのが宗教の特別な課題である。
      我々はこの意見の一致において達成したものについて現実的である。それで我々は以下のことを守ることを力説する。すなわち、

      1. (生物・性倫理から大量報道・科学倫理、更に経済・政治倫理に至る)多くの議論されている倫理問題に対する全体的意見の一致は得がたいであろう。それにもかかわらず、多くの論争中の問題に対してさえ、我々がここに共同して展開した根本的諸原理の精神に照らせば、適切な解決が得られるはずである。

      2. 多くの生活分野において倫理的責任の新しい意識がすでに起きている。それ故医師、科学者、ビジネス関係者、ジャーナリスト(報道関係者)や政治家ごとき、できるだけ多くの専門職業人が、それぞれの特殊専門職の難しい問題に対する、特別ガイドライン(指針)を提供する、現状にあった倫理的規則を編み出してくれるならありがたいことで遭う。

      3. なかんずく、我々はさまざまな信仰共同体が自らに独特の倫理を定式化するよう強く促す。すなわち、例えば、正と死の意味、苦しみに耐えることや罪の許しについて、自己犠牲や出世間の必要についてあるいは慈悲と喜びについてそれぞれの信仰伝統が言うべきことを。これらは、すでに判別可能な地球倫理を更に特定化することになろう。

     結論として我々はこの惑星の一切の住人たちに訴える。ここの意識が変わらなければ、地球は良いほうに変えられない。我々は個人及び集団の意識のそのような変革のため、反省、瞑想、祈りあるいは積極的思考によって我々の精神力の目覚めのため、そして心の転換のために働くことを誓約する。一緒になれば山をも動かすことができるのだ!危険を負う覚悟と犠牲を払う用意がなければ、我々の現状を根本的に変えることはできない!それゆえ我々は、社会的に有益であり、平和を育成し、地球に親しい生活法と共に、共通の地球倫理とより良い相互理解のために献身する。

     我々は、宗教的であるなしにかかわらず、一切の男性と女性に同様にするように招請する。




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